江戸時代

先物取引は、商品や債券、株価などの相場の変動を利用して売買の予約を取引して行われる投資になりますが、その商品の市場において適正価格を定めるための調整機能を持っていたり、また、将来的な相場の変動に対して、その影響を避けるためのリスク回避を行う事ができたりなど、先物取引を通じて、その市場に様々な効果をもたらしています。

こうした先物取引ですが、この取引の起源は実は日本にあり、時代も古くさかのぼって250年以上昔の江戸時代に大阪で誕生したものとされています。

江戸時代の米は、現代における金銭のような役割を強く持つもので、当時の日本の経済の基盤は、お金ではなく米がにぎっており、金や銀の交換をする際に、米の価値がその両者の交換レートを決定する役割も持っていたとされています。

お金よりもしっかりとした信用価値を持っている米は実質として日本の経済を回しており、近畿地方の大阪や京都はで大都市が集中していたこともあり、こうした米でのやり取りが頻繁に行われ、それに伴って米取引も活発に行われていたとのことです。

特に大阪では、海に通じる大きな港があり、これが米の流通に適していたこともあったために、その取り扱いの量は当時日本一であったとされています。

このように米の取扱量が増えることによって、実際の米を目の前にしての取引が難しくなり、大阪の米市場では、重たくて扱いの難しい米俵での取引をやめてしまい、代わりに米手形をいうもの作り、これを発行して米の取引を行っていました。

この米手形には、先物取引のように何時の幾らでどのぐらいの量を買う、もしくは、売るといった記載がされており、これを発行して取引を行い、その期間中にコメの価格が変動した分は、その差額を受け取ったり支払ったりすることによって取引の完了としていました。

この事から、例えば凶作などによって米の値上がりが予想される場合は、先物であらかじめに買っておき、豊作などによって米がだぶついてしまって値下がりが予想される場合は、先物であらかじめ売ることなどが行われるようになりました。

この事により、米の価格が値下がりする場合には、先売りをしていた人は安くなった値段で買い戻しを行うことで利益を得て、逆に先買いをした人は値下がりの分だけ損をすることになり、また、米の価格が値上がりする場合には、先売りをしていた人は高くなった値段で買い戻しを行うために損になり、逆に先買いをした人は値上がりの分だけ得をするという要素が発生することになりました。

こうした事から、投資性が高くなった米相場に参加する者も多くなり、後に米将軍と呼ばれた徳川吉宗によって、大坂にあった米市場「堂島米会所」が幕府に認められることになったのです。